コラム ― ポーランド・ドイツ、アウシュビッツの旅
ポツダム宣言、ユダヤ人絶滅会議、の会場見学。
「償いの証」の学生との懇談。
けっこうハードな一日でした。
ポツダム宣言が行われたツィツィリエンヒー宮殿、また大量殺戮が公に行われることになった、ユダヤ人などの絶滅作戦を決定したヴァンゼー会議の会場の見学、ナチのSS,ゲシュタボの本部後に立てられた「テロルの地誌記念館」を見学したあと、夜は、「償いの証」で活動している若者との懇談がありました。
ベルリンは、ほんとに美しい町です。3分の1が緑だそうで、街の真ん中に森があるのです。
でも、統一ドイツになってから、街の修復に力が入っていますが、戦争の傷跡は深く、特に東側は、未だに街中どこかで工事をいる風景が目立ちました。
ガイドの長井さんの話では案内した人から、「私は観光に着たのに、工事現場の視察みたいだ」とのジョークも出たことがあるそうです。
財政が厳しので、古い建物や文化財などの修復が間に合わないのですね。
東ドイツはソ連に制圧されて、戦後の賠償金の額も西より高額だったこともインフレを招く原因の一つだったようです。
私たちはソ連や東ドイツを「共産主義の国」だったとは思っていませんが、ガイドさんが「共産主義の時は・・・」と話されるを聞くと、「共産主義と言われていた」と訂正したくなりましたね。
ポツダム宣言の会議があったツィツィリエンホーフ城で。
ユダヤ人など、絶滅させる計画を練った場所です。ヴァンゼー。
大変美しい屋敷で、湖に囲まれていました。いい景色を見て、鳥のさえずりを聞きながら、絶滅収容所の計画を練ったのです。
「テロルの地誌」はナチスの権力の集中していたところ、ゲシュタポやSSの中心部のあったところです。
それは地下にあり、爆発させたのでわからなくなっていたものを、開発のための工事で発見。
市民の、ナチがなぜホロコーストを行うに至ったのか、青年がなぜ組み込まれていったのかを探求し、若者に歴史を伝えたい、との要求で、地下の展示場のほかに記念館がたてられました。
ちょうどベルリンの壁の一部が残っている場所でもあり、たくさんの見学者でいっぱいでした。
お天気がよかったので、市民が散歩に来ている様子で、ベルリンの壁を見下ろしながら日向ぼっこの姿も見られました。
午後7時からの若者との懇談を終え、夕食が終わったのがなんと10時でした。
ナチスがたどった道を反芻し、なぜ、そんなことになったのか、幾度も考えながら見学した一日となりました。
掲示された資料から新たな事実も分かり、「恐ろしい」では表現できない胸苦しさで言葉も少なくなりました。
余談ですが、ドイツでは日本でやるように「はい!」と元気よく手を上げることは嫌われるとのこと。「ハイル ヒトラー」のナチスの挨拶だからです。
「どうするんですか?」「指を一本立ててください。それでいい」そうです。
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さて、今晩は、感銘を受けた夜の若者との懇談会の報告をします。後は時間があったときに。
「償いの証」は、プロテスタント教会が後押ししているNPOの団体です。
ナチスに迎合した教会が、あまりに抵抗が少なかったことを反省した牧師さん中心に、その反省の上に体験でナチの恐ろしさを学んでもらい、ハンディキャップを持っている人や、ホロコーストで犠牲になった人への支援などを、世界的な規模で行っている団体です。
今日は20才と28才の女性が来てくれました。ベレーナさんとエミリーさんです。
しっかり考え自分の意見を持ち、行動し、おまけに美人!すばらしい若者でした。
二人はアウシュビッツで1年間、ボランティアをして来ました。
ベレーナさんはガイド、エミリーさんは各博物館でユダヤ人の歴史や文化などを見学者に伝えました。
「なぜ、することに?」
「なぜドイツ、ポーランドが戦争になったのか、歴史を知り受け継いでゆかなければ・・との思いです」
ああ、もうだめだあ。とっても眠くてまともに書けそうにありません。この報告も明日にします。
非常に貴重な内容でした。続きはまた明日。
(2015年5月25日 記)